我慢しない事、それは即ち自由なのか。
令和三年 四月八日 木曜日
昼休みにMicrosoftニュースのタイルが視界の端を掠めた。
クリックして現れた記事は以下の朝日新聞デジタルの記事である。
昼休みにMicrosoftニュースのタイルが視界の端を掠めた。
クリックして現れた記事は以下の朝日新聞デジタルの記事である。
「ジェンダー視点での批判は昔からあったが、ツイッターなどで違和感の声を上げやすくなった。関心をもって変えようとする層と、変化についていけていない層の分断も感じる。よりよい発信をするためには、作り手側のメンバーの多様性も重要」
しかし、よくよく考えてみるときちんと知らないと思った。
何となく知っているつもりにはなっているけれども、我が子に説明できるか考えると不安が残る。
そこで、改めて知ろうと思い、複数検索して調べてみたところ、参考になると感じた記事が以下だ。
何となく知っているつもりにはなっているけれども、我が子に説明できるか考えると不安が残る。
そこで、改めて知ろうと思い、複数検索して調べてみたところ、参考になると感じた記事が以下だ。
社会領域でのジェンダー中立性が実現している以上、日常生活において「女であること」を意識したり、それが問題になったりするのは、家庭や恋愛、性愛といった個人的領域においてのみということになる。
ジェンダーニュートラルは、性別を意味するジェンダー(gender)と、中立を意味するニュートラル(neutral)を組み合わせた英語。性別を越えて中立的な状態を目指すもので、性別をないものと考える「ジェンダーレス」と同様に、男女に二分することに疑問を呈する言葉だ。
以下の記事は、特筆して危機感を覚え、そして納得してしまった。
男女の性差は悪であるどころか、人間社会が存続していくために絶対に必要なものであり、それは「自然の知恵」「人類の知恵」とでもいうべき実に貴重なものだという事実である。
検索して複数記事を読んでみて、私なりに解釈した結果、要約すると。
『男らしさ、女らしさに縛られたり拘ったりせず、あくまでも自分らしさを追求する(と、主張する)』思考や言動であると感じたが、大きく間違っているだろうか?
揚げ足取りのつもりは無いのだが、『あくまでも自分らしさを追求する』事に『縛られたり拘ったり』している様に感じるのは気のせいだろうか?
『こだわらない』と言う部分に拘り過ぎていて、かつ強い執着があるように感じ、逆に多様性を失っている気がして違和感を覚える。
『男らしさ、女らしさに縛られたり拘ったりせず、あくまでも自分らしさを追求する(と、主張する)』思考や言動であると感じたが、大きく間違っているだろうか?
揚げ足取りのつもりは無いのだが、『あくまでも自分らしさを追求する』事に『縛られたり拘ったり』している様に感じるのは気のせいだろうか?
『こだわらない』と言う部分に拘り過ぎていて、かつ強い執着があるように感じ、逆に多様性を失っている気がして違和感を覚える。
真偽はともかく、福岡には男女同室で着替えを行う高等学校もある等と書いてある。これについては、私自身少なからず身に覚えがあるのだけど、強制されていた訳ではなかった。
もう随分と昔の様に思えるが内容は概ねそのまま。更衣室に行くのが面倒と感じる女子生徒が自分の意志で教室で着替え始めるといった現象。
確かに体育着に着替えたことがある・・・が、これは一種の性的アピールもあった様に思う。(繁殖衝動、とでもいうのか?不明)
私の数年先輩の世代では、歩道橋や街の真ん中で着替え始める『コギャル』なんていう存在もいて、ニュース番組で見た記憶もある。私は地味な存在であった為だろうか、数年下の世代だからだろうか、町の一角で連れ立って着替えることは無かった。
当時は、校則からかけ離れた『女子高生』の格好で、プリクラを撮る為に着替えていた様に思う。
昔話はともかくとして、私は男女差に拘らない様に生きてきたつもりだが、昨今は自由の名の下に『我が儘』を正当化している様に見える。
『男か女か、選択肢は二つなのがおかしい』とか、『決めつけは良くない』とか。
ならば身体的性別を問えば良いのか、それはそれでプライバシーの侵害と言い出すのではないか。
心身の性が食い違っている為に、悲しみや不条理を感じるであろうことは理解はできる。
中学生の制服や、選択肢が男か女かしかない場合、ジャージ登校が認められ始めた時代に感じたこと。
身体は男だけど、スカートが着たい。逆もあるだろう。ジャージ登校は名案だと思った。心身ともに男でも女でも、ジャージが良ければジャージを着れば良い。
式典の時だけは、正装として制服を着るだろうが、そこは『我慢』も必要ではないのか。
中学生であっても、制服を脱げば自由にすれば良い。
卒業して高等学校に進むのであるなら、熱意をもって私服高校を受験すれば良いと思う。
大学生ならば尚の事、服装は自由だ。
しかしだ。女学院に進むとなると話は別だと思ってしまうのは、私が狭量だからだろうか。
女学院は心身ともに性自認が女性の為の女の園であってはならないのか。
お茶の水女子大(東京都)が、戸籍上は男性でも自身の性別が女性だと認識しているトランスジェンダーの学生を2020年度から受け入れると発表し、九州の女子大に戸惑いが広がっている。
この件について言わせてもらえば、『身体は男だが心は女、しかし性の対象は男ではなく女だ』
つまりMtFのレズビアンだった場合、心身ともに生粋の女性からすれば『完全に男』としても差し支えないと思うのだが、如何だろうか。
国防を司る自衛隊等は、現在は男女がしっかりと分けられている様子。
いずれは自衛隊も男女混合となり、男子寮女子寮等という言葉すら差別用語となるのだろうか。
女性自衛官も、寮生活を送ります。女性自衛官居住エリアには、男性は完全に立ち入り禁止です
トランスジェンダー、性同一性障害、性別不合、表現は様々あるらしい。
トランスジェンダーとは、こころとからだの性が一致していない人を指し、医学用語の"性同一性障害"とは、厳密には異なる言葉
トランスジェンダーという言葉と同じくらい、性同一性障害(GID)という言葉も頻繁に使われるようになりました。
しかしこの2つ、「英語表記と日本語表記の違いでしょ?」と勘違いされがちですが、実はそもそも表すものがちがうとご存知ですか?
精神という不確かなもので判断する必要性はあるだろうか。
身体に子宮があれば女性、精巣があれば男性、両方あれば両性、どちらも無ければ無性、この4種類で収めるのは視野が狭いのか。
それこそ、精神の性別なんていうものは個人の自由だと思う。気にする人間なんているのだろうか。
スポーツの世界においても、そうだ。有利だから『心は女だ!』と胸を張って主張したのだろうか。
セリーナさんの努力と心情を思う時、目頭が熱くなる。
セリーナさんは、その年の州選手権である大きな壁にぶち当たる。セリーナさんを負かした1位と2位の選手が、トランスジェンダーの女子、つまり性自認は女性だが生物学的には男性とされた選手たちだったのだ。
立場が逆の場合もあるだろう。
チャンピオンになるという目標を達成したほうが良いのではないか"と言われ、周りにどう思われようと、"女では敵なし"と言われるまでリングに上ることにした」。
この選択は正しいと思う。責めるつもりは無い。
しかし公平性の欠片もないと言わざるを得ない。堂々と心は男である!と言わない理由は、リング上で不利でしかないからだ。
抑々、身体的に女性が不利なのは明白だ。何もスポーツの世界だけでの話ではない。
元男性の女性はスラリと背が高く美しい人も多いが、元女性の男性が元来男性と張り合っても、群を抜いた美丈夫になる確率は、低いではないか。
元女性で所謂イケメンになれるのは、身長170cmを超えないと難しいと思う。(男にしてみれば170cm程度、普通だ)
区別を差別だと勘違いしていないだろうか。混同してはいないだろうか。
なんでもかんでも取り払えば良いというものでもないはずだ。何事につけ、我慢が足りない様に思う。
全てを総取りしようとしていないだろうか?
偏見で大いに結構だが、自由が横行した結果、性被害にあう女性が増えてしまうと感じる。
私は女性で人間が好きだが、男が嫌いだ。しかし、恋人は男性で、女性の私を好きなのだ。
私は恋人が女性でも好きだが、恋人はそうではない。私が女性ではなく男性であったなら、恋人同士にはなれなかった。
人間として好かれたい、と思ったこともあるけれど、うまく行っているならそれで良いじゃないか。
こだわる必要は無い。縛られる必要もない。
女性特有のお化粧、お洒落が苦手な私。下着や靴は女性コーナーで選ぶが、衣服は専ら男性コーナーをうろつく。
男に生まれたなら楽だったとも思う。でも男になりたいと強く願った事は無いし、女である事実に絶望を感じたことも、無い。
何故ならば、私は心身ともに女性で、女性であって良かったとも思うし、嫌いな男として生まれていたらそれこそ、絶望したのだろう。
本当に、いま、生きていないかもしれない。女として生まれて、産んでもらえて、良かった。母には感謝している。
我慢が足りない点について蛇足だが、#KuToo運動なるものが出回った時には、心から呆れた。
仕事で強制されるとの言い分だが、避けて通れなかったのか。少しでもラクな靴を探求する選択肢は無いのか。
私は生まれながらの偏平足と外反母趾の足を持つ、利き足には余計な骨までついている。
言わずもがなハイヒールとついでに化粧も、私は全力で回避した。当然だ、立っていられない。
しかし式典等は腹を括ってヒールに足を入れる。最寄りの駅に着く頃には、既に足が痛い。しかし我慢だ。
呆れた理由は、ハイヒール強制は苦痛だが、ハイヒール禁止となったらそれはそれで文句をつけるのだろう。(これも偏見だろうよ)
仕事終わりに女としての用事、合コン等があれば、痛くてもハイヒールを履くのだろう。強制されるのは嫌、禁止されるのも嫌、自由にさせろ!という主張。
どっちにしても、都合良くしたいという魂胆が滲み出ている気がして受け付けない。我が儘と言わずしてなんと表現すれば良いのか。
我慢や忍耐のハードルが低過ぎる。我が儘だ。我が儘を貫いた先にあるのは自由ではない。
ある一定の制限があるからこそ、自由を感じることが出来るのではないか。